Just another melancholic director's diary

メンヘラ部長日乗

未分類

わが破瓜発症の日々(2)

更新日:


僕のフォロワーさんに、福岡の東筑高校というところを出て九州大学に進んだ優秀な学生さんがいる。彼はポルダリングをやっていて筋肉にも恵まれ、申し分のない青春時代に見えるのだが、しばしば「あああ」とか「ポークビッツ」とか奇声を発する。金がないようにも見えるけれど、学生さんはだれしも多少なりとも経済的に困っているのが常であり、仮に経済的に困窮していなくとも、彼の奇声とポークビッツは変わらないだろうというのが僕の見立てだ。

実にすばらしいと思う。

一人暮らしをして最初に覚えることのひとつが、頭から毛布をかぶって奇声を発することだ。

「王様の耳はローバー美々」という寓話を想起するのである。みんなブログやツイッターでは「映える」ことしか書きたがらないが実情はそんなものである。むろん調査をしたわけではなく、こういうのは大局観といって認識が落ち着いただけに過ぎない。そして大方は狂いがない。

91年、92年、93年、94年、95年、96年、僕もそうだった。当時、世田谷の宮坂というところの下宿に住んでいた。近くには鴎友学園という女子校があって、体脂肪率1桁、ちんこでかい、きらきらしていたはずの僕は経堂駅からアパートに帰るまでの道すがら、いわゆる逆ナンパをされたこともしばしばあった。比率でいえば男性からのアプローチのほうが多かった点は今後の研究が待たれねばならない。

近場のスナックのママに(大人の事情で)食べさせてもらっていた時期もあった。ピーコックから農大通りを少し歩いた右手、胡麻焼酎のおいしいxx、いまはどうしているだろう。

気持ちはいつもかつかつだった。しかし、だからといって恵まれていなかった、などということは到底できない。確かにかつかつだった部分もある。けれど90年代、東大ブランドというのはまだまだ健在で、時給4,000円以上の塾講師、家庭教師というのがわんさとあった。覚えたての翻訳からの取り分、通訳、その他を加えれば、月に30万円40万円と稼げた時代だった。

僕は夜な夜な、世田谷の道を、ゼンリンの住宅地図を開きその日のルートを定めながら、走っていた。走った道を、赤く塗りつぶすのである。駒沢、砧、三軒茶屋、深沢、北沢、太子堂、松濤。あの頃は駒沢公園を長渕剛が走っていた。また、僕は直接すれ違うことはなかったけれど、松田優作がなじみにしていた寿司屋に、せめて馬券を取った日くらいはと、大将に顔を覚えてもらうことを励みに、自慢にしていたような、そんな日々。

文章は、からきし下手だったと思う。それにいまと違って、ウェブのような発表の場というものがなかった。勢い、コクヨのノートに断章を記しては、引き出しの奥にしまい、ときおりそれを取り出して眺めて、奇声を発する、そんな10代の終わりから20代の初め、だったことを懐かしく思い出す。せめて、圧倒的な何か、頭脳以外の、端的にいえば筋肉的な、意識ではなくそれ自体が何か自己主張をし、自分を覆い隠してくれるような何か、がほしいと思っていた。

当時の僕にはそれの具体的な在り方として、女と酒と馬のほかに思い浮かぶことがなかった。帰り道に声をかけてくれた鴎友学園の女の子とは、手紙の2、3のやり取りをし、砧公園で何度かデートをして、それきり別れてしまった。

関連記事:

-未分類

Copyright© メンヘラ部長日乗 , 2018 All Rights Reserved Powered by STINGER.

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。