Just another melancholic director's diary

メンヘラ部長日乗

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商人にとっての文学

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働きながら文学をやる。これは生半可な難しさではないと思います。

率直にいってしまえば、畢竟「外貨を稼いでくる」ことに尽きる仕事よりも、文学のほうが難しい。ここで僕がいう文学とは芥子粒のような自らの実存を無限の世界に投げ出して、どこにいるか皆目、見当のつかない読者を強引にひっ捕まえて、その脳裏に書き言葉を投げ込み、刻みつける営みのことです。

よく、「金稼ぎは受験勉強じゃない」「教科書のない世界だ」なんてことをいいます。僕も何度もいわれています。表立って反論することはないものの、僕は金稼ぎこそ教科書化をどんどん推し進めるべきだと思う。まあ、多く、そんなことを僕におっしゃるのは、僕が単に受験勉強的な世界でぬくぬくと生きてきたように見えている方です。そして、そう見せることは、僕の生存戦略でもある。大歓迎です。

けれど、一方で文学なるものに義理立てしたい気持ちも捨てがたい。

だいたい、何を書いたらいいかわからないでしょう?

表現技法もなければ、書くべき体験も経験もない。仮にあったとして、書いた途端にそれは、書こうと思った体験とも経験とも異なります。そこでじっと息を潜めて、腰を落として、20年30年と灯火(ともしび)を見つめながら耐え抜ける人は、まずいないはずです。もしいたら、その人は何を書いてもきっと何かが書ける。

商いは、そこまでじゃない。促成栽培がある程度は効く世界です。

この話は、今日の話の半分。これくらいにして、後段に移ります。

 

それくらい難しく、魅力的なものであるから、文学は身を滅ぼすに十分です。

ならば、若い時分には、本など読まずに、企業が好む「何かひとつのことに打ち込んだ経験」、つまり体育会系を4年(大学で)7年(高校から)10年(中学から)ほどやったとか、それで必要十分かというと、そうではなかろうと思います。

そりゃ新卒就職のときには有利に働きます。

でも、35、40の坂は、書き言葉を通じて自我や孤独と向き合った質量の蓄積こそが、その先に来るべき破滅の道のほうに進むハンドルをこちら側に戻す十分な働きをしてくれるのではないか。そんなふうに最近の僕は考えています。

鍵はおそらく、読書や文学が普遍を指向することにあるのでしょう。誰しも同じであると。似たようなものであると。あれほど、跳ね返りのつもりだった自分が、枠内に収まって、何らかの重力にじっと、しっりと、紐で引っ張られながら、何かの回転軸で回り続けていられる。その手応えをなくして、あるいは、感じる力を養ってこなかった中年が、行き当たるまで、博打や女に現(うつつ)を抜かす、つまらない諍いを起こす、軽はずみな行動に出る。よく聞く話です。

 

今日はちょっと抽象度の高い話になりました。でも、偽らざる実感です。

もちろん、自分自身、今日こうして書いたことには批判を加えることができますので、その辺りは後日。

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